教えのやさしい解説

大白法 517号
 
随力弘通(ずいりきぐづう)
 「随力弘通」とは、各人がその力に随って仏法を弘めることをいいます。
 この「随力弘通」の語(ご)は、法華経『随喜(ずいき)功徳品』の五十展転(てんでん)の文(もん)に、
 「如来の滅後に(中略)是(こ)の経を聞いて、随喜し已(おわ)って、法会(ほうえ)より出(い)でて余処(よしょ)に至らん(中略)其(そ)の所聞(しょもん)の如く、父母(ぶも)宗親(そうしん)、善友(ぜんぬ)知識の為に、力に随(したが)って演説(えんぜつ)せん」(新編法華経 四六四)
と説かれる「力に随って演説せん」(随力演説)と同義(どうぎ)です。
 これは法華経の本門寿量品を聴聞(ちょうもん)して随喜した人が、その功徳の甚大(じんだい)なることを、自(みずか)らが聴聞したとおりに他(た)に教え伝えていくことです。
 日蓮大聖人は『松野殿御返事』に、
 「然(しか)るに在家の御身(おんみ)は、但(ただ)余念(よねん)なく南無妙法蓮華経と御唱(おとな)へありて、僧をも供養し給ふが肝心(かんじん)にて候なり。それも経文(きょうもん)の如くならば随力(ずいりき)演説も有るべきか」(御書 一〇五一)
と、正法(しょうぼう)を護持する者にとって、御本尊への唱題と仏祖(ぶっそ)三宝尊(さんぼうそん)への供養、そして経文に説かれるごとくに随力演説していくことが大事であると仰せです。
 なお、その弘通に当たっては『義浄房(ぎじょうぼう)御書』に、
 「此(こ)の五字を弘通せんには不自惜身命(ふじしゃく しんみょう)(これ)なり」(同 六六九)
とあるように、不自惜身命の精神で臨(のぞ)まなければなりません。
 また、末法において自己(じこ)の信解(しんげ)の力に随って弘通(演説)することの元意(がんい)について言えば、それは下種(げしゅ)の法華経、すなわち日蓮大聖人の仏法に随順(ずいじゅん)し、血脈(けちみゃく)法水(ほっすい)を信じて、これを誤(あやま)りなく伝え弘(ひろ)めていくことです。
 ゆえに、日興上人は『遺誡(ゆいかい)置文(おきもん)』に、
 「富士の立義(りゅうぎ)(いささか)も先師(せんし)の御弘通(ごぐずう)に違(い)せざる事」(同 一八八四)
と御遺誡されているのです。
大聖人が『御義(おんぎ)口伝(くでん)』に、
 「大願(だいがん)とは法華弘通なり」(同一七四九)
と仰せられ、日興上人が『遺誡置文』に、
 「未(いま)だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ隨力弘通を致すべき事」(同 一八八四)
と示されているように、三大秘法の広宣流布は御本仏(ごほんぶつ)の御命(ぎょめい)です。ゆえに、我々は身命を賭(と)して大聖人の正法を弘通していかなければなりません。『法華初心(しょしん)成仏抄』に、
「法華経を強(し)ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗(ぼう)ぜん者は毒鼓(どっく)の縁となって仏になるべきなり」(同一三一六)
とあるように、順逆(じゅんぎゃく)二縁(にえん)を共(とも)に救うべく、各自が其(そ)の力に随って折伏・弘教に精進することが肝要(かんよう)です。
 全国の法華講衆が、水魚(すいぎょ)の思いをなし、異体同心して折伏に励むとき、大聖人の御金言のごとく、広宣流布の大願も必ず成就します。一人ひとりが大聖人の正法正義を随力弘通し、広宣流布に邁進しましょう。